焼け跡を忘れまいとして尚武を忘れている

創価学会は構成員が高齢化し「戦争責任世代」が去りつつあることで無情に過去を『狂っていた』『権力の魔性』と決めつけられる『無責任』世代が主体となり他宗教のみならず自らの伝統をも破壊する「自己革新」を『後継』と言っている。人権にうるさい創価の人たちに問いたい。「戦争犯罪人」の一方的断罪も人権無視ではないのか?当人も遺族も死に絶えたら誰が名誉を守るのか?
大正11年生れ、敗戦前後に医科生であった山田風太郎は、戦時中当然の愛国心をもちながらも読書の感想や上司・軍人等の傲慢な言説への懐疑などを膨大な日記に綴った。敗戦後の東京裁判の侵略主義非難も『民主々義』宣伝も、彼には白人優位主義・勝者の傲慢でしかなかったが、日本人の一転して卑屈な態度は幻滅を感じさせた。やや年下で戦後に読書をはじめた池田大作氏(昭和3年生れ)は戦勝国の立場に立つように英米追従の戦後民主々義者としてかつての指導者を「戦争犯罪者」と冷酷に断罪し、昭和40年代には『ファシズム復活』に警鐘を鳴らして平和主義者、さらに『正義』を自称する。山田の同級生の半ば近くは戦死したが池田の学年では少年航空兵志願しか従軍していないという世代論的にもまして人間のタイプが違い池田は世論追従型論士であろう、
山田風太郎の『戦中派焼け跡日記』(昭和21年の日記)の抜き書きに謂う。程子の三不幸「少年にして高科に登るは一の不幸なり。父母の勢いによって美官となる二の不幸なり。高才ありて文章を能くする、三の不幸なり」
1は池田大作(わずか32歳で大教団のトップとなった)
2は原島崇(親が公明党初代委員長で年少の会長に忠誠を尽くしたことで嘱望され教学部長の大任を得たが父が急死したことで破目を外したか)
3は山崎正友(京大在学中に司法試験合格し顧問弁護士として大石寺の僧侶との交渉も受け持ったがマッチポンプ的活躍で両者の不和を演出し週刊誌等にリークし自己の価値増大を図った)か。山田は開戦までの無理からぬ経緯を知っているだけに「戦争犯罪者」と心情合い通ずるものがある。