信じるものがなければカラッポの人生だ

タツミ君は俺の言が右翼的になったという。
とはいえ、彼も含めて友人のネットワークが俺の正気を支えているわけで。
信じたいものを信じるのだから「徴兵にかかる年齢が過ぎたから」若者への嫉妬で兵士にしようとする、と思われるのも可。「本の読み過ぎで奇矯になった」、
なにより「池田先生への反感」から文藝春秋文化へ心酔したと思われてもしかたがない。
このところ池田先生を見ても「老けたな」としか思えない。
いずれ来る没後になにが残るか?
なによりも
「私心無き帝とくらべて「池田先生の著作で感動できますか?」国」は個人を超えるもの一般の象徴ではあるまいか。
国のアイデンティティを求めると「かのように」であっても天皇にたどり着かざるを得ない。(なんとなく「平和憲法」が良いというのは怠慢であり対米追従

「民主主義とは国民教育=ナショナリズムを要件とする」、違う?