第三文明は第三世界に通用するか?

「世界平和の日」とは「池田会長がアメリカ初訪問した記念日」と聖教新聞にある、(為念、それによって「世界平和が築かれる」端緒に「なった」か「なる」という因果関係を主張している)キリストの磔死によって全人類が救われたとか、神国を侵そうとすれば神風が吹くとか、ドグマとはそんなものかも知れないが、「米軍機に毒ガス攻撃を受けている」とアピールしたオウム真理教を笑えるか。
記念日を増やしていけばどれかが「命日」になるだろうという魂胆みたい。
いうまでもなく「平和」にも様々な立場からの「平和」があろうが、アメリカのような侵略国・軍事国家から「平和」を発信してどうする。
これを漫画で報じた「中学生文化新聞」にだした葉書
二稿「…平和とは戦争と対比してこそ輝くものですから中学生に尊いとかそのために努力とかいうのはナンセンスの極みです。眠たい。草々」
あらゆる閉鎖系は行き詰まる、おそらく日蓮正宗の教義大系も。
日蓮世界宗」はその打開の試みか?自分のもっていない戒壇御本尊建立の月の意義を転回しようとしてか。
(「会長辞任の日」4月26日を「SGIの日」と呼び替えるように)
(’60年とあればその後ベトナム反戦運動でもしたなら評価されたかも知れないが)

今は廃れたがアジア・アフリカ・中南米の旧植民地諸国を文明に遅れたものとして「第三世界」という言い方があった。(非産油の窮迫国家群を第四世界とも呼ぶ)おもうに、1945年日本占領軍は日本も第三世界と見て自力では文明開化できないといろいろ押しつけたのだろう。池田大作史観というものがあるとすればその見解に一致するもので、(創価学会がよく日本の神仏混淆を「遅れた」というはその表れか)戦勝国の立場から「封建国家」であった大日本帝国を断罪する。戦前の生き残りもいなくなってきて言いたい放題であるが、宗門をいまさら「戦争協力」で裁こうとするのはどうだろうか。