戸田会長は創価学会発展期の「開発独裁」だったのか?

こう反日行動があからさまという国際ルール無視では、EUはチャイナへの武器売却解禁を再考するかもしれないという。ゆえに小泉首相の頑固なことは胡錦涛には迷惑この上なし。

阿片戦争の敗北・城下の盟=首都追い詰められて結ぶ講和に隣国日本ほども脅威を感じなかった支那にとってはようやく1900年の義和団事件が『攘夷決行=関門海峡外国船砲撃』『薩英戦争』にあたる。青春時代の友と再会するまでには成長していることを心しても、どちらが前かわからなくなっていたりする。人は葬式までは評価を確定できない。時には死後もなお定まらないこともある。仏様とか革命家は救われる民衆との対比で光っているにすぎない。死ぬか、あるいは敵に協力かという二者択一は、一神教の宗教裁判あるいはイデオロギー集団の査問の手口である。国家を資本主義体制維持のための暴力の組織化と見るプロレタリアートと文化的歴史的アイデンティティーと見る権力側は「立場の違い」だから妥協できない。仏教ではあまり殉教を美化することはない。とは言え感動は生死を超えるときに生まれるから、「死身弘法」=身をころして法を弘める、とも言って死ぬことが有益かの判断を個人に委ねている。死なない方が有益かも知れない。いろいろ考えたが「信仰の自由という人権を守るために団結する」息子を戦場に送り出している父親に転向を迫るが、牧口会長は結果的には獄死したが、信仰を棄てなければ殺す、とまで言われた訳でなかった。別の局面で、そう言われたらどうしたか。仏法を今日一時屈服して時を待つやり方もありうるかも知れない。宗教の評価は下がるかも知れないが。大石寺の僧侶はそうしたとしよう。それに反発して境内で公然と飲酒した戸田会長は創価学会発展期の「開発独裁」だったのか?で生死に関わる信仰は妙法の英知とは当意即妙の詭弁か。思うに『平和主義』は行動するのにちょうど手頃な闘争を必要とする。太陽と同じく。そのうえ月は、日の光を受けて輝いているにすぎない。