新年に入るというのはお札をくずすような物
ストレス解消には? 投稿者:鬱子 投稿日:2005/01/11(Tue) 02:23
思うに人間のある規範を持った集団があり、新参者とベテランがいて規範の伝達が行われれば、自分に都合よく規範を解釈しようとする新参者と先輩・教練係、あるいは生徒・学生と教師には必然にストレスが生じ、
教祖=カリスマが亡くなった後であれば意見の分裂は必然なのではないでしょうか。企業のような利益集団でさえあることですから、「大乗興起」=「根本分裂」は必然であったのでしょう。
その分裂のお陰で仏教は豊かなものになったと考えるべきかも知れません。
キリスト教のカトリックとプロテスタントも儀式においてさえかなり違いがあるようです。
[16] Re:[13] 「平和主義者」の好戦性 投稿者:枯葉りんらん 投稿日:2005/01/10(Mon) 22:11
はい、こんばんわ。
枯葉りんらんの独り言です。
宗教と聞けば難しいと言う人がある。
それは、
頭で考えて神や仏を理解しようとするからかも知れない。
考えた神や仏は、
知識となり概念となって、
さらに知識を求める。
そして、心が外に向かう。
外に向かえば自他の対立が生じる。
それぞれの人がそれぞれの神や仏を創る。
それが対立と争いを起こす。
神や仏にとっては、迷惑な話だ。
信仰と聞けば、優しく穏やかで、
心が内に向かうような気がする。
内に向かえば、相手が無いので争いが生じない。
我見を捨てて、心の奥深く求めていくと、
自分なりの宗教的経験による得心が生じる。
一度経験すると、
自分というものに、本来自我が無いことに気付かされる。
あらゆるものは、無自性であることに気付かされる。
そして、とらわれのない大慈悲が生じる。
誰でもが、
その性質を持っているとしたら素敵なことだ。
もしかして、
ブッダはそのようなことを伝えたかったのかも知れない。
では、またね
[15] 宗教はSM? 投稿者:鬱子 投稿日:2005/01/10(Mon) 21:04
他人の宗教は淫祠邪教に見えるものですから、かるがるしく意見をいうのは人格否定にもなり慎むべきではありますが、
あの暑い国でラマダンでは日中は断食?と思っていましたが
小室直樹『日本人のためのイスラム原論』によると、イスラムは
生活一切を規定する「規範宗教」で、日本人にやや受け容れられたキリスト教は(心に信じてさえいれば)何をしてもかまわない「無規範宗教」だそうです。
無理っぽいことを押しつけられるのはSMみたいなもの?
[14] 「持続可能な成長」とはなにか 投稿者:鬱子 投稿日:2005/01/10(Mon) 17:43
生来虚弱でスポーツは全般苦手ですが、このごろ軍事に関心があります、雑誌の売り場で「スポーツ関係の雑誌がこんなに多いのにミリタリーは少ないなあ」と違和感を覚えるほど。
さて。イスラムには前身のユダヤ教から考えると二千年の歴史があると言います。「コーランか剣か」というのはキリスト教側の誹謗で武力で改宗を迫ったことはないが戦闘では無類の強さを発揮したのはご承知の通り。
しかし、あまりに「弱者にやさしい」イスラム諸国は産業革命に乗り遅れました。
とはいえ200年ほどで環境破壊大量破壊兵器を生み出し人類の生存が問題になっている資本主義体制がイスラムを否定するほど将来性をもっているでしょうか。
イスラム諸国に核兵器がないのが国連の常任理事国となっている「戦勝国」となっていますが、18世紀以来戦争と革命に明け暮れてきた西欧諸国にこの悪魔の力を独占する資格はあるのでしょうか。
「世界平和」を本当に願うなら全世界、まずは日本がイスラム化し核武装するのが「唯一可能な道」かもしれません。
[13] 「平和主義者」の好戦性 投稿者:鬱子 投稿日:2005/01/10(Mon) 17:18
いつも思うことですが、新年に入るというのはお札をくずすような物で、ことに大台が近づくと日ぐれて道遠しの感は強いですが、
やはり乏しい知識でも仏教関連に「人類の光明」はあるような気もしますのでそのことについて対話の相手を求めます。
宗教対立民族紛争などの武力衝突に傍観者は嫌悪感を持たざるを得ませんが、「命を賭しても守るべき物」は殺し合いをすることでしか証明できないのでしょうか。
創価学会と大石寺の争いに典型的なように相手陣営を「堕地獄」と罵ることは、相手の信仰=宗教心というアイデンティティーを否定していることになると思いますが、それが回心を促す道でしょうか、それとも目的は自陣営の保護でしょうか