「すごく重要なことを自分では言ってるつもりの文章下手の老哲学者の
福沢諭吉『痩我慢の説』(明治24年)は『立国は私なり、公に非ざるなり』人
間が国に分かれて住み、特定の君主に忠誠を誓うのは絶対不変の(普遍の)価値
という訳でない、私情のことだから、政変が起きたとして新支配者がぜったい正
しいとは言い切れない、が
滅ぶべき旧体制であっても、親の危篤のときに見捨てる子のないように、恩顧を
享けたものは最期まで維持に努め「痩せ我慢」すべきだという。
この旧幕臣らへの非難の文章は、さきもって勝海舟のもとに送られたが勝は
「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」
少しもかまわないと論争を避けた。
新政府の公職に就かなかったとはいえ体制変動の利益を享受したのは当初低い
身分にあった福沢諭吉であり、幕臣でありながら新国家建設に尽力し、結果とし
て主君である徳川家が朝敵となり、権力外に下ったことで傷心をいだいていたの
はむしろ勝であっただろう。
国家が社会契約でなりたっているということはフィクションではある。フランス
革命の思想的源流のジャン・ジャック・ルソーは共和制を夢想しただけに性善説
で、「考えさせる」教育論で社会が維持・発展できると思っていた。
ルソーの思想はカントを通り、デューイも経て牧口常三郎に至るのかも知れない
。
創価学会が「民衆勝利」と空恐ろしいジャコバン的スローガンを掲げるのはどう
せたいしたこと出来やしないから心配ないが(そういうと心配になる?)、
いまひとつのスローガン「人間主義」は生物学的生存から出発して個人の行動を
とらえようというプラグマティズムでないの?つまり牧口常三郎は洋魂和才?
あるいはその先で幻惑することで人間を支配しようとする『一億総白痴主義』か
?
宅間守は死刑になったが「死にたい奴」の犯罪をどう防ぐかの課題は残されたま
まである。親子兄弟の間柄なら「弱さの自主的克服」を待つの悪くないだろう。
しかし契約を重んじ、それによって成り立つ利益社会では育った環境は責任能力
欠如の言い訳にならない。
反省が強制できないとすると最終的な責任の取らせ方が死刑しかないとは?
現代社会とは、
個人が社会と対立して存在し、それに参加したり離脱したりして影響を受けたり
、発展させたりするものではない。社会は個人のなかにスーパーエゴとしてある
という方が妥当なようにも思われる。
個人を尊重すると人の中に潜在的にある【人を殺す権利】も尊重することになら
ないか?
妙な抽象論ですまん。
「人間は文字どおりの意味で社会的動物である。単に社交的動物であるばかりで
なく、社会の中でだけ自分を個別化することのできる動物である」(マルクス『
経済学批判』)
完全な共産主義社会では個人に対し強くなれという圧力、契約を実行せよという
要請を受けることはなく、気楽かも知れないが進歩は競争にある。
日本人の競争は個人間ではなく、小集団間で行われる。
【天台本覚思想は仏説に非ず】
という本を読んだことがある。
本覚論は日蓮の源流といわれ、ジャコバニズムにも近い。
されど、「個人がなくとも社会は成立する」
創価学会の唱題根本は本覚論?
件名についてだが、俺は「減劫」=衰退の時代というのは上に立つものが行き詰
まり、哲学の成長も止まってしまって下のものが追いついてきて上からの統制が
取れなくなることで起こると思う。