科学技術は’45以降の「平和」の時代に大発展した

飛行機も原子物理学もない時代の百科事典はよくまとまっていたし、
長持ちがした。
池田先生が「文系の復権」を言うのも、そうした時代への郷愁といえなくもなかろう。
しかし、「一家に一台、ときには二台クルマがある時代」
「子女を大学へ行かせるのが当然の時代」
「拒食症以外に餓死が考えられない時代」
高度成長はそれをもたらした。
(同じ頃、人民チャイナは粥をすすってでも核兵器を持とうと決意した)
人々は賢くなり、政治家を馬鹿にし、
聖職者の教えを拒食症かマゾヒズムとしか見ない。

 御書講義について

 会長戸田城聖先生が日蓮大聖人の御書を拝する御態度は、
自らものべられているように、「これを敬い、これに親しむ
こと天日を拝するが如く」であられた。そして、大聖人の御
金言を実現する広宣流布への大確信と、民衆救済の大慈悲と
は、そのまま大獅子吼の講義として、実に学会前進の一大源
泉となったのである。 即ち、昭和廿六年五月、会長就任以
来、この御書講義は毎週金曜日、一日も欠かすことなく続け
られた。初めは西神田の旧本部八畳、六畳の二間が会場で、
約五十人位の人が講義を受けていた。テキストは毎月発行の
大白蓮華に数編ずつ掲載された御書であり、現在の教学部の
幹部はこの中で育ったのである。
 「学会の誇るべきものは教学である」との先生の御精神を
受けて、学会員の教学に対する意欲はとみに高まり、先生の
講義を求めて集まる人数は、学会の発展と共にふえ、旧本部
は階下まで埋まり、講義会場は神田教育会館、市ヶ谷家政学
院講堂と次々に移された。やがて約二千名を収容出来る豊島
公会堂が池袋に出来、ここが常設講義会場として使用される
ようになった。そのほか大阪でも月一回、短期間ではあった
が定期的な御書講義がもたれたし、地方指導、夏季講習会の
折などにも行われていた。 この講義は受講資格に制限がな
く、入信直後の初信の人でも聴くことが出来たし、全国で講
義を受けた学会員の数は数十万にのぼった。
 こうして、会長戸田城聖先生は、御書講義としては七年の
間に日蓮大聖人の御書の中、立正安国論、開目抄、観心本尊
抄等の五大部を始め、御消息文の大半と、その主要なものは
すべて講義されたのである。
*すべての巻に共通*

 可延定業書は、この一般講義の一つとして、昭和丗二年九
月廿七日(金)午後六時半から、約一時間にわたって、東京
品川公会堂で行われたものである。 
 昭和丗二年といえば、会長戸田城聖先生は五十八才で、こ
の年の十一月には願業の七十五万世帯を達成された重要な年
である。なお、五月には大阪参議院補選あり、六月には北海道に
炭労問題が起こり、七月には大阪事件ぼっ発等々、三類の強
敵も粉然と競い起っていた。更に九月には、青年部体育大会
で会長先生の原水爆問題に対する大宣言が発せられるなど、
特筆すべき事件も多い。
 この講義は、こうした時代のきびしいふん囲気の真只中で
行われたものである。

   可延定業書(日蓮大聖人御書全集九八五頁)

 このお手紙は、日蓮大聖人が五十八才の御時、弘安二年に
身延から下総の富木五郎左衛門尉胤継入道常忍の夫人に与え
られたものである。富木常忍下総国若宮の領主で、建長四
年頃から大聖人に帰依、太田・曽野殿を折伏し、千葉方面の
布教と外護に尽された強信な方として知られている。
 同夫人は、富木殿と共に、信心に励み、夫の入信と共に剃
髪して尼となり、富木尼御前と称せられていた。その人とな
りは、温良貞淑内助の功も大きく、姑への孝養のあついこ
とも、大聖人のおほめにあずかっている。 また子息の伊予
房日頂(六老僧の一人)を十六才で大聖人の門下に捧げ、弘
安二年の熱原の法難の時には、越後房・下野房達を下総に迎
えて愛護した話も伝えられている。また、この頃、尼御前自
身は病魔と斗っていたようである。
 そのような時にあたって賜った御書が、この可延定業書で
ある。定業(寿命)も信心によって延ばすことができると、
信心の上で御指導を賜り、御秘符の話もある。

 附 質問会の内容

一、霊山浄土という思想について教えて下さい。
二、手紙に南無妙法蓮華経と書いてよいでしょうか。
三、怪我で死んだのは定業でしょうか。
四、南無妙法蓮華経の五字七字というのはどういうわけです
  か。
五、邪宗教の曼陀羅でも南無妙法蓮華経 日蓮と書いてある
  のがあるでしょうか。