正本堂が、池田本仏論の最大の依り拠となり続けていること)に鑑み

法華講のHPで次の一文を見かけました。

>>さらに池田創価学会が、破門されて、なお、『正本堂建立』を誇り続けている現実
>>(すなわち正本堂が、池田本仏論の最大の依り拠となり続けていること)に鑑み、
>>池田の妄執を払い、池田本仏論という前代未聞の大謗法の根を断つべく、
>>解体が決断されたものと拝する〟 ということであります。
「老朽化」は問題でなかったんですねえ。
正本堂」という御本尊のお家がありました、住んでいる人使用する人が雨風か
ら守られれば建物に罪はない。
「みっともない」と思うようになったのは、何時の頃からだったのでしょう?
女がある人間を「私が生んだ」と言い張っても、処女で妊娠したわけでもなく(
創価学会が勝手に建てたものではない)
成人すれば独立した人格がある。
それを否定するために殺してしまいますか?

自明の事実を否定するために
数十億の費用を費やして解体するのは「人間軽視」きわまりない。
つまり建設に賛同した事実を覆い隠すために壊した。

創価学会は信徒と僧侶が対等などと思ってもみなかった。
池田先生を、ついで創価学会員を「破門」は死刑にひとしいが、
上に立つものは
アカウンタビリティ=説明義務があるのが当然。
忘れてはいけない、「カノッサの屈辱」をうけたハインリヒ四世も、戴冠をして
からは
こっちのもんだとばかり、法王グレゴリー七世に仕返しを充分にやってのけたこ
とを。
(法王の廃位と次の法王の選出も成し遂げた)

さて。むかし聖方(ひじりかた)というのがありました。
聖(ひじり)ともいいますが、
高野山において學侶方、行人方と同居して独自の念仏中心の平易な教義をもち、
諸国を巡歴して
民衆を勸化し相当な数になったらしく、女性でも學僧にはなれなくとも聖(ひじ
り)にはなれました。
明治維新の時に形式的には廃止されたらしいですが。
思うに(いまさら釈迦に説法かも知れませんが)
宗門はわれわれ創価学会員をその聖(ひじり)のような「別物の信仰」と見てい
たのでしょう。
要は自分らは「密教」であると。
そのうえで、
自分らは大衆には理解しがたい高度な信仰をしているから、
ご本尊を拝ませてやっていることもあり、無条件に尊敬し奉仕すべきだと。

ひとに「尊敬しろ」と要求するほど惨めなことはなく、
尊敬されるためには尊敬されるような言動をしていなくてはならないというのは

「考えるのを禁じる」宗教家の常識ではないようです。

創価学会のなにが「総講頭罷免」に価するのか(世間的に見て)理解しがたかっ
たので
当時のニュース解説でも困っていたようですが、衣の権威というのは便利なもの

随一の資金源を切るのは「よほど悪いことをしたんだろう」と見なされたようで
す。
創価学会を「ひじりかた」と見下しているからこそ
法主を尊敬しない」という非難が先に来て、根拠の薄い
事項が「謗法を容認している」という苦情の中心とせざるをえなかったのでしょ
う。
イデオロギー的に一体となっている集団のトップはイデアを根拠とすべきで、
本来は「謗法はこのくらいならいいというものではない、
絶対にしちゃいかん」(日達上人)だからこそ
法主上人猊下は「無上位」であり、
要は
「常人には理解しがたい難解な教義、それが存在することが『遣使還告』の秘儀
のために絶対必要」とのドグマが成立するか否か?
密教」は密教の存在を暴露されてはならないはずですが。

’92年当時、創価学会員も正月は寺に行ったものでした。
その時に学会批判を聞かせるのを狙って、しかも年末の27日からは対処もでき
ないだろうと見越した
名誉会長の総講頭罷免であった訳ですが、
今日では11月青年幹部会のスピーチ内容について謝罪すれば
それを根拠に追求して無理難題を重ね、名誉会長の権威を失墜させて
学会を分裂に追いやり「いいとこ取りする」計画であったことが暴露されていま
す。
権威に弱い馬鹿は好都合でも貧乏人は必要ないからなあ
日本共産党の「所感派・国際派分裂騒動」にヒントを得たか?
(上の騒ぎでは宮本顕治御大が除名となりのちに党歴50年表彰を逃しました)

あるいは明治維新前夜の長州征伐に似ています。禁裏を犯したというかどで長州
征伐した幕府は
鳥羽伏見の戦いで、朝敵の名を負わされました。
徳川慶喜の出身水戸といえば国学の盛んだったところ。彼はそのプレッシャーに
耐えきれなかった。
みなもと太郎風雲児たち幕末編』がそこまで行くのが楽しみです)
当時の公家に宗門は相当し「自分の代わりに戦ってくれるもの」を求めていまし
た。
立ち回り上手なのは「実力」のない特権・権威集団に共通の属性です。
話はもどりますが、創価学会が即座に12月28日夜に下級幹部にいたるまで会
館に集合させ
「総講頭罷免」について説明し、宗門には回答を送り見事に対応したことは
すでに学会のなかに「密教/顕教構造」ができていたことを物語るのではないで
しょうか。

してみると宗門の誤算は指導力の欠如より「自爆テロ志願者」がいなかったこと
にあります。

創価学会の誤算は学会出身僧が学会につかなかったことか?

青山樹人『宗教はだれのものか』(’02、鳳書院
によると
年末に「総講頭罷免」をつきつけ、あけて
’91年1月6日「全国教師指導会」本山に集った全国の
僧侶・寺族は会合の冒頭で「敵は幾万」を「本住房秋本意道住職の音頭で合唱して気勢を上げたそうです。
すでに創価学会は敵だった。