スポーツウェアに仮装する古い宗教

花火に色がついたのは明治になって西欧化学が入ってからのことらしく夏目漱石
「化学とは花火を作る術なるか」という俳句はその感動を歌ったものなのでしょう。
西欧では鉄砲は大砲の製造に発展しましたが、日本では徳川の治世で「平和の術として鉄砲は花火になった」というのが江戸物SF作家の石川英輔の説です。あたりまえですが同じ浪費でもミサイルよりなんぼいいかわからない。

大阪ではPL教の本部で毎年8月1日にやる花火大会が有名。教祖が臨終に「命日は花火を上げて祝ってくれ」と遺言したとやらで、十数キロ離れた我が家でもある程度見えて、最後の赤い色は半天を占めるほど強烈です。やはりテレビで見るより実際に見るのは感動しますが、高校野球と共に淫祇邪教の不況に利用されるとしたら、やはり危険?

宗教は感動させればいいというものではない、一生にわたって信じられる論理の超徹底性が求められる。
宗教の教祖は(「思想家」「哲学者」も)常識・伝統に挑戦する「天才」ですが、彼の本分は論理ではない直感なので、死んで「教団」となると「正義」を称するために内部矛盾しない体系的「教義」が必要となり、新たな権威が出現するのは避けられません。ひとに安心感を与える宗教の本質は「正統」で「正義」ではないのではないか。
それでも時代に取り残されないためにときに「宗教改革」も必要でしょうが、数億年前の原生類も生き残っている地球です、古い、邪悪な宗教としても絶滅は困難でしょう。むしろ滅びるのは「新しい宗教」でしょうが、

「摂理」のテレビ報道を見ると「統一教会」と笑うほどそっくりで、「10年一昔、20年大昔」という言葉が当てはまりそうです。「生半可に知っている者はだましやすい」とはいいますが、「統一教会」をまったく知らない者なら人間に「安心したい」という願望がある以上、手付かずの沃野な訳で、景気も良くなってきて「都会に出てきて、就職はなんとかできたけど友達はいない」という若者がターゲットでしょうか。

そうとう前の新聞記事で、交通事故にあって身体障害で動き回るために数百万円かけて自宅を改造したとあったと思います、それが93歳の方でした。私よりあとまで生きるかもしれないけど、やはり「何年住むか」と思ってしまいます。
けれども、考えてみれば「常識」を欠いていても一応生きていけると何も知らないままでいるのは自宅を改造しないよりも怠慢かもしれません。少しでも先人の成果を知り、理解して感動も、質の高い「あとで幻滅しない」感動、子供に伝えていける感動をしたいものです。所詮、教師・先輩というのは自分の知識ではなく知識を追求した感動、感激を伝えるものです。

先週は、名高い海洋小説「ホーンブロワー」シリーズの第三巻を読みました。舞台は1810年で、ナポレオンの伝記を春には読んでいて、そのナポレオン戦争の敵の英国海軍士官からの視点だと「英雄」変じて「独裁者」で、「英国上陸の機会をうかがって資材の浪費を承知で上陸用舟艇を無数に建造していた、1週間でも英国艦隊が行動できないことがあればウィンザー城は占領されていただろう」など興味深いものがあります。帆船時代の船員には戦闘以上に事故による損傷が多く、海戦は舵取りと風に逆らって進む「間切り」を駆使しながら(当然すべて人力)、大砲をぶっ放す非常に複雑なものでした。艦長の決断力は何より重要で、白人の(いわずもがなの)誇りというようなものさえ感じます。
冒険小説の常としてうまく運びすぎますが、娘に「必読だ」と言いましたが、あまり興味ないようです。
織豊時代に日本にきたポルトガル人は日本人に船の作り方も教えなければ、法王少年使節以外には日本人をヨーロッパに連れてくることもしてくれませんでした。やはり伝道は口実で侵略あるいは商売が目的?