池田先生のような『人中の虎』から大衆はどうやって身を守るか

2004年のメールを見ると、今と同じように考え同じ疑問を持っているが、今はわからないままでも「自分は何も知らない」とわかり、知識を求めるのに性急ではあっても自己憐憫的する暇はなくなった。50まで生きれば短すぎはしなかったのだから、「人生とは何か学ぶ暇がなかった」と愚痴は言えない。 とりあえず今もっている知識で生きていくしかないわけで、自分の知っている範囲が世間の常識と仮定する。その領分は日々変化するが誤解や虚偽情報で立ち入り禁止、使用不能の流砂・毒沼の部分もあるだろう。砂漠が年々広がっているような忘却による縮小失地を防ぐには受け容れるときに感動してグラデュエーションをつけることだと思う。 文明とは一面、天然資源を見いだして浪費することであるが、都会人が買い物でストレス解消するために有用品を破棄するのは愚かしい以上の悲劇ではないとして、最大の浪費は国家規模では戦争であるように個人では離婚だろう。「嫌いになった異性と同居が不快で短い人生の空費」というのは一理あり、昨今では「破綻してもしないよりはマシ」「家庭崩壊でグレた親不孝な子でもいないよりはマシ」であるからステイタスも下がらないらしい。とはいえ自分勝手は人間の本性だからそれでも同居するのは社会的保護があるからで「嫌いになったから」、「好きでなくなって同居に耐えられないから」別れるのはつまるところ快を求めているのであり代償を必要とする。熟年の70%が離婚を考えているともいう。ナポレオンのような「子供ができない」ため性的活力のあるうちという離婚など昨今ではマレだろう。  民主主義の健全な運営は「いかにすれば(信頼にたる指導者を選べるよう)民衆を賢明に出来るか?」に帰着する。政治課題というたいていの人には無関心が正しい事柄に係らず人生を有意義にすごすことに向けられるために、幸福な死、納得のいく死、人生が空費されたと後悔しない犬死にでない死、市民たる名誉を損なわない死、子孫を保護してくれるものとしての国の将来の存続に不安がない状況での死を迎えられるように。あるいはイデオロギー集団、あるいは教団に安心の境地を求める者もいるが、「正義」は概して文化の担い手である国よりも長持ちしない。誰しも『平和』を願うが自己や自分の身内を犠牲にしてまでのことではない。ナポレオンも。パオリに売国奴とされたナポレオンは奉公する相手をコルシカからフランスに転じざるを得なかった。英雄を求める時代は不幸だという。ナポレオンほどの『人中の虎』のような人格から大衆がどうやって身を守るかが民主主義の課題だろう。ところでピクチャーのユゴーは、筋はメロドラマで怖じ気づくが読んでみると筆力でなかなか読ませる。