居眠りも勤行、善意も悪用可

改憲論者)小林節憲法と政治』P117
池田大作名誉の話は「あとで)「…」
82年2ヶ月と23日の生涯
トルストイ
Lev Nikolaevich Tolstoi   【人類の教師】

(1828.08.28〜1910.11.20)
家出をして汽車で発熱し、肺炎で死亡---乙女座
ロシアの作家、道徳思想家。ドストエフスキーとともに19世紀ロシア文学を代表、『戦争と平和』『アンナ・カレーニ』などで今でも多くの人に愛されている世界文学史上の巨匠のひとり。
伯爵家の四男としてツーラ近くのヤスナヤ・ポリャーナの広大な荘園に生まれ、カザン大学を中退後、軍務について、カフカスで処女作『幼年時代』(24歳)を書きあげ、文壇に認められた。

34歳に宮廷医の娘で18歳のソフィヤと結婚し、文筆活動に専念。『戦争と平和』『アンナ・カレーニ』などの大作はこの時期に生まれた。

やがて宗教的思想に自身の内面の矛盾からの救いを求めるようになり、『懺悔』(54歳)、『わが信仰』(56歳)その他の宗教論文、『イワンの馬鹿』などの民話で、悪に対する無抵抗の思想を説いた。

50歳の時それまでの作品を否定し、70歳に発表した『芸術とは何か』では、自作品を含め、世界の大文学を全面的に否定するに至る。

晩年は夫人との家庭的葛藤に苦しみ、作品だけでなく、妻もたくさんの子供も、巨額の印税も伯爵の地位もすべて捨て去ろうとした(私有財産の放棄)が、家族達の抵抗にあう。

何度も家出をはかり、82歳の時遂に実行。夫人に別れの手紙を残し、小さな包み一つで汽車に乗り行方不明となる.4日目に汽車の中で熱を出し、アスターポヴォー駅の駅長室で、あとを追ってきた家族にみとられて肺炎で死亡する。

トルストイは、大小説家であると同時に、大説教家でもあった。トルストイ主義とも呼ばれる人道主義で、当時の世界に大きな影響を与えた。日本でも白樺派を通じてトルストイ主義は浸透した(1)。
日露戦争をめぐっては、ロシアの文豪トルストイが開戦直後から反戦の立場に立った。すでに世界中から熱烈な崇拝者を獲得「人類の教師」のような立場にあった75歳の作家は、1904年、5月に論文『思い直せ!』を完成させた。高邁な長文は、翌月にはロンドン・タイムス紙など英独仏各紙に転載された。---トルストイは黙殺されてきたもう一つの論文で、こうした平和論と矛盾したことを書いている。---彼の説いた〈普遍的な宗教(万教帰一思想)〉も、「結局はキリスト教が中心でなければならなかった」。日本海海戦の衝撃は「人類の教師」の隠された真情を、あっけなくあぶり出した」(2)。
トルストイの「書置き」と「最期の言葉」です。
〈生涯の最後の日々を孤独と静寂のなかですごすために、俗世を去るのだ。居場所がわかっても、迎えにこないでほしい〉
〈真実・・・、私は真実を愛している。誰にも邪魔されないように、どこかへ出かけよう・・・・・〉
桐生操著「世界情死大全」より)」(3)。