メロスが暗殺に成功したら、後世に名を残せたか?

人を信じなければいけない社会と、信じてはいけない社会とがある。早い話が、「防犯システム構築」に「人を信じなきゃいけない」と思っていたらバカである。
’94年10月27日京浜急行青物町駅で通勤ラッシュ時に精神科医師が射殺され、公開捜査後も犯人の元患者の人権に配慮し(!)日経・NHK・TBS・テレビ朝日は匿名を貫いた。「『犯人は特定の人物を狙っており、無差別に発砲するとは考えられない』との判断はやや独断的すぎるのではないか」(青木彰『新聞力』P108)早い話がキチガイに刃物。
宗教団体は前者である。忠誠心のチェックは目立たない形で行われ、回心の機会もふつう与えられる。
公権力を私用した者には反省の用はない、辞めてもらうだけのこと、辞めそうもない場合には死刑も許されると思える、拡張すると暗殺までも。
だから宗教者が権力を持つことは信仰の堕落ではないか?
公明党冬柴幹事長の花道に法務大臣のポストを要求していると週刊新潮にはかいてあるが、死刑執行の判を捺す役割ができるものだろうか?(かつて大谷学園を経営する僧籍の左藤恵は辞退したそうだが)