釈迦は「いまや死は克服された!」

池田先生の対談集を読んでいると、話が盛り上がったところで話題が転換して
歯ぎしりすることがあります。本当はそれから続いて話が盛り上がったのではな
いでしょうか。

池田先生と英国天文学者(定常宇宙論者)ウィックラマシンゲ教授の対談
『宇宙と仏法のロマンを語る』では
ウィックラマシンゲ教授は「インドで初等教育しか受けなかったにもかかわらず
、当時の数学界と隔絶した高等数学の定理を大量に案出したラマヌジャンの事例
は『転生』の証明になるのではないか」
と容易ならざることを言っています。
小川洋子博士の愛した数式』の「博士」にもラマヌジャンの面影があります

人類の知らなかった数理を生まれながらに知っていたということは?
他の天体のエイリアン=知的存在からの転生があったことを意味しているのでは

いでしょうか?

微分積分でも非ユークリッド幾何学でも時代に絶対に先がけたものではなく、
そういう時期に来たときにほぼ同時に複数の人に案出されていますが、
ラマヌジャンの発見は彼なくしては百年経ってもわからなかったろうと藤原正彦
は書いています。

このラマヌジャンの事例を他の説明ができるでしょうか?
(上記は一度書きましたが不思議と消え失せたようなので少々添削して再び貼り
付けます、見落としでしたら済みません)

法然は「捨閉閣放」

親鸞は「悪人正機

鈴木大拙は「般若即非

西田幾太郎「絶対矛盾の自己同一」(場所的逆対応)

久松真一「F・A・S」

滝沢克己「不可分・不可同・不可逆」

秋月龍萊 「一息に<超個の個>」←自薦

だそうで。(意味は知らん)

付け加えれば、

孔子は「則天去私」

釈迦は「いまや死は克服された!」

ソクラテスは「無知の知

イエス・キリストは「幸いなるかな貧しき者」

デカルトは「コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)」

パスカルは「人間は考える葦である」

ルソー「子供は裸足で育てるのがよい」(「自然に帰れ」は著作にないという)

(余興)フローベールボヴァリー夫人は私だ」

ドストエフスキー「神がなければ人間にはすべてが許されている」

トルストイ『愛があるところ神はある』

ニーチェ「神は死んだ」

ガンジーは「サティヤグラハ」(「慈悲による拒絶」?)

戸田城聖は「佛とは生命なんだ!」

というところでしょうか。

池田先生については思案中。

そういえば現在まで彼等をこえる倫理思想がないと言い得る三大聖人、
ゴータマ・シッダルータ(BC562?〜BC482?)
孔子(BC552〜BC476)
ソクラテス(BC470?〜BC399)
は、ほぼ同じ頃に活躍しています。


異星に「大日如来」みたいなのが居て「地球の文化を進展させよう」と弟子が転
生してきた?

半村良『妖星伝』みたいだな。)

三人の「人類の教師」の教説は宗教に於ける根本的大問題「死後の生」があると
もないとも
(意外にも)はっきり言わないという共通点があるようです。
幸福の科学」みたいにスピチュアリズムの態度をとると、軽薄な感じですから
ね。

「若佛久住於世 薄徳之人 不種善根 貧愚下賤 貪著五欲」

BC586バビロンの捕囚(ラムセス2世が与えた一神教ユダヤはえらく気
に入り民族のアイデンティティーとなった)

BC580ピタゴラス生誕も同じ頃。



戸田先生の会長就任式で日淳上人は「全世界のみならず他の星までもこの妙法

をひろめて」と言われました。

仏法が数学のように真理なら、転生して他の星で広めるもありうるでしょう。

(「幻魔大戦」みたい)

戸田先生は霊山にお帰りになる直前には

折伏のできない他の星に生まれて来るか」と言われたとか

自分の生れ変わりという人が出るのを抑えるため?

いやいや打算でものを言う先生ではありません。

以前「夫以外とのセックスはなぜこんなに楽しいのだろう」とかいう林真理子
不機嫌な果実』のコピーが話題になりましたが、男が
「わたし、妻とはセックスレスですが『人妻ピンサロ』は大好きで
月二回は行かないと淋しいです」というのは異常とは見なされない。

要するに男も女も助平とは言えるような。

(つまり自分の遺伝子を残したいと言うこと)

「本当は男の方がロマンチック、男は自分が花を贈って欲しいから女に花を贈る

マイクル・クライトン

表彰などでメダルや花束を渡されたときのうれしそうな顔をみると一理ある。

広宣流布男のロマン」と思う根拠です。

「逆命利君」という言葉があります。
=命に逆らって君を利する之を忠と謂い…(荀子・臣道)

少し前後も引用すれば

命に従って君を利する之を順と謂い、

命に従ふも君を利せざる之を諂と謂い

命に逆らって君を利する之を忠と謂い

命に逆らって君を利せざる之を簒と謂い…(後略)

民主主義のもとで、主権者である国民の世論に逆らっても

国をよりよい方向へ導くのが忠臣である政治家の務めではないか。

「小説・葉隠」で主人公の父が主君に諫言したために切腹を申し渡されて

「これぞ男子の本懐」

という場面がありますが、このことをいったものでしょうか。