任務中なら交通事故で死んでも死身弘法か

平和と「民族の独立」はどちらが大事か。
「信教の自由」とではどうか。

開高健対談集『六千万人の囚人』より。
ロシヤ文学者木村浩との対話から。

大量虐殺は、少なくとも成吉思汗からあったが、20世紀は収容所の時代といえる。
それは人権思想の裏返しでなかろうか、たとえば文才があっても国家に有害な方向につかわれようとすると認めない。殺すよりも収容して人生を奪ってしまう。動物的生存は最低限の人権ではあるし内心の自由もある。管理社会の極限。

1920年代にすでにソヴィエト連邦には収容所があって、そこを脱走した人が英国で共産主義告発をしたりしたものだから、当局は西欧でも人気の作家ゴーリキー五木寛之ご愛好)にレポートを書かせようと企てた。作家のくる前にたとえば根がない並木が形だけ作られるという具合に見てくれをよくした。よくある話。
ゴーリキーが美しい環境、衛生的な設備に感心して見学を終わろうとしたその時一人の少年が「話たい」と進み出て二人は密室に長い時間はいっていた。
少年は数ヶ月後、「反ソ宣伝」で処刑されたという。
ソルジェニーツィンゴーリキーをなぜ少年を連れて帰らなかったのかと告発する。
その直後のイタリヤ旅行の際、彼には亡命してやっていくだけの文名も知的資産もないのがわかったので心くじけた、と告発する。
(実は読んでないが、木村浩はそう言っている)

創価教育学会の牧口初代会長が殉教したというのは過褒の気味がある。1年以上取り調べを受け結果的に獄死したが、信仰を捨てなければ殺すとまで言われたわけではない。
日蓮大聖人在世当時の熱原の農民は殺すと脅されたと思われる。

命が惜しい以上、平和を求めるのは当然すぎること。では信仰と引き替えにではどうか。
あるいは産経新聞的に考えれば民族の独立とではどうか。
50歳の誕生日までにはこの世紀の難問に答を出したいと思う。