山本七平命日。論議はあるが「読むに価する」

我が身が老いること・死ぬこと、親戚・友人・知人たちが先立つこと・年老いて衰えることは悲しいが、慰められるのは若い者が育つこと、伝統を継いでくれることなのだが、伝統を破壊する池田創価学会は何処へ行く?「学会は不動」、あるいは「宗門との関係を断ち切って大聖人直結の純粋正義である」動いたのは周辺環境といいたげだが、
とどのつまり「池田大聖人」とでも呼びかねない王朝を遺したいのか。そのオーソリティーとなるのは何か?そのコンティニティーは保証されているか?そのノーブルは創価大卒か、アリストクラシイ(=貴族政治)に誤りはありえないか?

日蓮大聖人が平地に火山を出現させるごとく一大事業を興したのは誰人も否定できまい、ただし「日蓮(大聖人)本仏論」は仏教を覆すようなコペルニクス的転回である。
御本尊>「学会組織」(=戸田先生の命)>「池田神話」
(とわたしは見る)
「価値論」は見捨てられた感があるが、「公明党」やら「創価大学」やら「海外授勲」「日中・韓日友好」などが「絶対」に加わっては見るからに危うい。

山本七平は遺稿『民族とは何か』で既に常識かも知れないが「(七つの海を制覇した大英帝国やヨーロッパのほぼ全土を版図としたナポレオン帝国からすれば今の英仏は衰退の途上)民族国家はたとえ衰えてもそれは政治力・軍事力・経済力に限定され、文化的民族的秩序が崩壊するわけではない。しかし普遍主義に基づく人口国家アメリカ合衆国は別である」P106と重大なことを言っている。
教義を変転させる創価学会は「人口宗教」にあらずや?