ひとつぐらいのタブーはあってもいいだろう、それは「御本尊」不論

「池田神話」と「学会組織」で三つになっても多いのに「公明党」やら「創価大学」やら「海外授勲」「日中・韓日友好」などが加わっては見るからに危うい。

ただし「ご本尊を論じること自体が法華誹謗」と言うのは妥当だとおもう。

創価新報大白蓮華9月号松岡雄茂論文にたいする宗門「邪義破折班」の反論への批判が載っている。松岡論文「『法主信仰の打破』―日寛上人の言論闘争」は、文底秘沈抄の「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如し。清浄の法水断絶せしむることなし」の文は「法義継承面での大石寺の正統性」をあらわしたもので法主絶対論とつながらないという主旨だが、ことのついでのように「法主は自らが書写し、あるいは形木にした御本尊に『法魂』を宿らせるのだ、と日顕宗は言う。だが、法魂を宿したはずの返納御本尊を大石寺内で大量焼却*「御焚き上げ」か*している、という矛盾は決定的である。その法魂は焼却してよいのか。結局、法主が伝えるべきことは、法魂のごとき正体不明の法体ではなく、法体の教義なのである」とある。
これに対する「お役目を終えられた御形木御本尊に具わり給う御法魂は、丑寅勤行における御法主上人の甚深無量の御祈念によって、大御本尊のもとに還御遊ばされる」という反論が
「まるで怪談話に毛の生えた、カルト教団も顔負けの噴飯ものの珍説である。」…「日顕丑寅勤行をサボっている間は、その魂とやらは、どうなっているというのか」
この批判も品がないが、そもそも物体のみならず人間にさえ「魂」があるというのは非仏法の邪説ではあるまいか?